井伊直虎の父の井伊直盛と母の千賀の生涯!

nhk2017年 大河ドラマ「おんな城主 直虎の父
井伊直盛(いい なおもり)

 

強大な今川支配のもと、今川への対応を巡って激しく対立する
家中のかじ取りに日々苦心している。

 

生け花を愛する心優しい父である。

そして直虎の母 祐椿尼(新野親矩の妹)
ドラマでは千賀(ちか)

今川家臣・新野左馬助の妹。

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今川との同盟の証しとして井伊家に嫁ぐ。
男子に恵まれなかったことを申し訳なく思っており、

その分しっかり者の気丈な妻・母である。

 

 

 

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画像:http://bushoojapan.com/iinaotora/2016/05/14/75885

井伊直盛(いい なおもり)とは!

遠江の国人であった井伊氏の当主であり、
井伊谷城の城主である。

後の女領主として知られる井伊直虎の父親に当たる人物として知られています。

井伊直盛(いい なおもり)

生年  1526年(大永6年)

没年  1560年(永禄3年)

別名  次郎

主君   今川義元

父母  父:井伊直宗 、母:井平直郷女

兄弟  山内勝近

妻   祐椿尼(新野親矩の妹)

子   井伊直虎

養子  井伊直親

井伊直盛は父井伊直宗の子として、1526年に誕生しております

今川義元が1560年に尾張への侵攻を企図した際には、先鋒の大将に任じられる、

先鋒の大将は敵軍と最も激しく戦う立場です。

 

今川軍は2万という大軍、尾張の領主・織田信長が率いる2千の部隊の奇襲を受けます。

不意をつかれた今川軍は動揺し、数で勝りながらも戦いに敗れ、総大将である今川義元が

討ち取られてしまいます。

 

この戦いで井伊直盛も戦死し、井伊氏は当主を失うことになります。

 

その後井伊 直親(いい なおちか)は直盛の養子で、直盛が戦死した後で井伊氏の家督を継承しました。

しかし、家督を継いでわずか2年後の1562年、主君の今川氏真から、

敵対する松平家康に内通しているのではないかという嫌疑をかけられ、

28才で今川氏真の家臣・朝比奈泰朝に襲撃され、討ち取られてしまいます。

 

その後井伊直平は直盛の祖父で、井伊氏の13代目当主ですが高齢(74才)で

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直親の子・虎松の後見にあたります。

 

直親死亡の翌1563年に、遠江の犬居城攻めに参加し、その際に戦死してしまいます。

そして井伊直虎となります

 

関連サイト
「おんな城主直虎」の名前の由来はと生涯まとめ!

 

祐椿尼(千賀)・直虎の母

母:新野左馬助親矩妹(にいのさまのすけちかのりいもうと)(祐椿尼・松岳院)

直虎の母であり、井伊直盛(なおもり)の妻でもある新野千賀(ちか)、

 

ドラマでは財前直見さんが演じられるこの女性は一体どんな人物だったのだろうか?

 

井伊直盛が人質として駿府に住んでいた頃、今川義元(直盛の烏帽子親でもある)の

斡旋で新野千賀と結婚。

 

彼女は今川家重臣・新野氏の娘であり、今川氏と井伊氏を結ぶ政略結婚でもあった。

新野千賀が井伊直盛に嫁いで「井伊千賀」となったのは天文5年(1536年)以降のこと。

 

千賀が直盛と結婚すると、おとわ(幼少期の井伊直虎)が生まれる。

おとわを生み、次の子を授かる前に、夫の井伊直盛は殉死してしまう。

1560年、「桶狭間の戦い」であった。

 

夫が死んだ千賀は、戦国時代の武家の習いで出家。

「祐椿尼(ゆうちんに)」と名乗って龍潭寺・塔頭の一宇である松岳院に住む。

 

千賀が残した最大の功績

『井伊家伝記』には、祐椿尼と井伊直虎、しの(井伊直政の実母)が3名で

 

次郎法師とは直政の後見人でもあった主人公・井伊直虎のことであるが、年齢的にも立場的にも祐椿尼こと千賀がリーダー格であったことは、「祐椿尼」ではなく「祐椿尼公」と敬称を伴った表記であることからもうかがえる。

ちなみに、井伊直政の母であった「しの」は、夫の井伊直親が討たれても出家をせず、まだ年齢も若かったこともあり徳川家臣の松下源太郎と再婚を果たす。

これにより跡継ぎがいなくなってしまった井伊家は一時途絶えてしまうが、後に井伊直親の子・虎松(井伊直政)が家康に引き立てられると、井伊家が再興。幕末まで徳川政権の中心にいたことは皆さんご存知であろう。

女3人で子(井伊直政)を守り(養育し)、再婚しても守り続けて家康に仕えさせる――彼女たちの戦略は「女ならではの戦い」であろう。

そして、その中心にいたのが祐椿尼(千賀)。
ある意味「井伊家の敵」ともいえる今川氏庶子家の人間が、井伊家存続のために奮闘してくれたのであった。

 

天正6年(1578)7月15日、千賀は他界した。戒名は「松岳院殿壽窓祐椿大姉」で、享年不明。

椿が好きだったことから、南渓和尚が「祐椿尼」と名付けたという。

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