林 忠崇(はやし・ただたか)は1941年(昭和16年)に
最後の大名とも呼ばれた、
請西藩の第3代藩主が94歳で亡くなりました。
幕末・明治・大正・昭和と激動の時代を生き抜いた。
嘉永元年(1848年)、上総請西(かずさじょうざい・千葉県木更津市)
藩主・林忠旭(ただあきら)の五男として生まれ、
20歳の時に家督を継ぎ、第3代藩主となりました。
請西藩は、わずか1万石のではありましたが、祖先が真心を尽くして
徳川(松平)将軍家に仕えた功績から、
毎年の正月元旦には、最初に将軍からの盃を賜る名誉を持つ家柄だった、
慶応四年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争、
東に向かった官軍と、それを迎える幕府軍も、西郷隆盛と勝海舟の
劇的な会見によって直接対決が回避され、
4月11日には江戸城無血開城となりました。
幕府の武士による抵抗していたが、林 忠崇はわずか1万石の請西藩とても
官軍を相手に戦える軍事力も無く、
59人の藩士を連れて、自らが「脱藩」浪人の身となって遊撃隊とともに
参戦する。
東北での戦いは、連戦連敗となって死を覚悟しての投降、
切腹は免れ、しばらくの獄中生活の後、明治五年(11872年)に釈放され
、晴れて自由の身となりました。
その後は地元で開拓農民として、元自分が治めた、
その地を自らの手で耕すのです。
その後に口利きで東京府の下級官員となりますが、
わずか2年でその仕事をやめ、今度は函館にて物産商の番頭として働き、
その後も大阪で役所の書記をやったりと職を転々としながらの生活だったのです。
明治二十六年(1893年)に林家の嘆願がようやく聞き入れられ、
林家への復帰が許されるとともに、華族の一員となったのです。
そんな林 忠崇の両親や妻・子供と子孫は?
アパートで生涯を閉じ墓所など調べて見ました。
画像:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BF%A0%E…
林 忠崇の両親や妻・子供と子孫は?
●父母:父・林忠旭、養父・林忠交
養父・林忠交が慶応3年(1867年)
6月24日に奉行在任中に伏見にて死去した。
享年23歳であった家督は甥の忠崇が継いだ。
兄弟:忠貞、忠崇、律子
妻:正室(小島弥作次女・チヱ)
子供:ミツ(次女、妹尾順平夫人、後に離婚)
兆女の名前は不明
養子:忠弘
1915年(大正4年)岡山県において、次女・ミツの嫁ぎ先であり、
妹尾銀行頭取で衆議院議員も務めていた妹尾順平の元で同居している。
1935年(昭和10年)にミツと妹尾が離婚し、
忠崇はミツと二人暮らしとなった。
晩年は娘ミツと同居しながら悠々自適の生活を送り、
時には「最後の大名として各取材を受けるなど幸福であった。
1941年(昭和16年)1月22日に
次女・ミツの経営するアパートにて病死されている。
満92歳没。
林 忠崇の墓所は港区愛宕の青松寺!
青松寺(せいしょうじ)
住所:東京都港区愛宕二丁目4番7号
電話番号:03-3431-3575
HP:http://seisyouji.p1.weblife.me/index.html
アクセス
地下鉄
・東京メトロ 日比谷線・神谷町駅 3番出口より徒歩8分
・東京メトロ 三田線・御成門駅 A5出口より徒歩5分
JR
・新橋駅より徒歩15分
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バス
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慈恵会医大前下車 目の前