酒井玄蕃(酒井了恒)は山形・庄内藩で 西郷をも動かす!美男で子孫は?

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酒井玄蕃(さかい・げんば)は出羽庄内藩家老酒井了明の
長男として生まれる。

幼名:虎之進。

元服して:吉弥。

諱(いみな):酒井了恒(さかい・のりつね)

慶應3年に家督をついでから父祖代々の通称である酒井玄蕃を名乗る。

日本最大の内戦「戊辰戦争」で、この戦いで強大な明治新政府軍に
一度も負けなかった、

西郷隆盛ら強大な明治新政府軍に徹底抗戦し「鬼玄蕃」の異名を取った。

戊辰戦争において東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と戦ったが、

庄内藩は会津藩、仙台藩、米沢藩とともにその中心となる。

久保田藩や新庄藩など、秋田方面諸藩が新政府側に寝返る。

新庄攻略、久保田藩領内に北進し幾多の戦闘を繰り返し、横手城を陥落させ、

角間川の戦いで大勝を挙げる。

久保田城攻略の準備を進めている最中、同盟軍の米沢藩・仙台藩が降伏し、

庄内藩の部隊は一斉に撤退を開始した。

これを知った新政府軍は秋田方面の兵力を増強し追撃に回ったが、

酒井 了恒の見事な采配により一進一退の攻防を繰り返しながら退却を進め、

庄内藩兵はほとんど犠牲者を出さずに撤退を完了させた。

しかし庄内藩は、幸運でした、
西郷隆盛は寛大な処分を行い、庄内藩を厳しく罰することはなかったのです。

そのため現在に至るまで、庄内地方は西郷隆盛の人気が高い地方です。

後に庄内に南洲神社まで造られている。

画像:http://thecrystalskull.blog135.fc2.com/blog-entry-…

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酒井 了恒(さかい ・のりつね)の経歴

別名:吉之丞(通称)

生誕:天保13年12月13日(1843年1月13日)

死没:明治9年(1876年)2月5日

(肺病を患い死去する 享年34)

墓所:東京都台東区谷中霊園

剣術に秀で、兵学を講ずる一方で、漢詩を詠み、書を嗜み、雅楽に通じ、

笛の名手であったという。

酒井了恒は美男?

新政府軍との戦いでは連戦連勝を重ねて「鬼玄蕃」として恐れられた武士。

戦にめっぽう強く、見た目は中性的な美青年でありながら、さらには人格も高潔という。

まるで女性のようにほっそりとしていて美しい、そんな青年だったのです。

※マンガ版

https://note.mu/bushoojapan/n/n1770235b8544

酒井 了恒さんの親族一族や子孫は?

:祖父:酒井了安

・伯父:酒井右京 – 庄内藩家老

・父:酒井了明 – 庄内藩家老

・弟:酒井調良 – 大泉県参事

・妹:白井久井 – 婦人運動家

・弟:黒崎研堂 – 書家

・甥:酒井駒太郎 – 園芸家

・大甥:酒井駿次 – 園芸家

・甥:黒崎幸吉 – 聖書学者

最後に

東北最強のイケメン名将・酒井了恒
ちなみに、

庄内藩は17万石から12万石に減じられただけであった。

ちなみに天保11年(1840年)にも、幕府による領地替えの計画が持ち上がったが、

領民の嘆願により取りやめになった経緯がある。

領民との結び付きといったソフトパワーの面からも、庄内藩は「最強」だっ
たのです。

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