承久の乱は何が原因と京都に置かれた役所は?以前にも2回変化している?

承久の乱

承久の乱は日本史を揺るがした大事件だった?

何が原因なの?

鎌倉幕府(北条義時・北条泰時ほか)
VS朝廷(後鳥羽上皇・順徳上皇ほか)

1219年(建暦2年)に三代将軍源実朝が暗殺されると
、実朝には息子が居らず、

源頼朝の子孫は孫娘一人となってしまった。

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そんな訳で幕府は朝廷から皇子を皇族将軍と戴いて、頼朝の孫娘の婿としようとした。

けれども後鳥羽上皇ら朝廷はこれを拒絶し結局、

頼朝の妹の血を引く九条三寅(藤原頼経)を婿養子として四代将軍とせざるをえず、

しこりが残ったのです。

その上この後に京都で内裏守護の源頼茂が上皇の腹心で構成される西面の武士に攻め滅ぼされる事件が起きるなど幕府と朝廷の抗争はエスカレートしていった。

穏健派の土御門上皇(後鳥羽上皇の長男)はこれを納めようとしたが、

順徳天皇(後鳥羽上皇の三男)は討幕に積極的で、

1221年(鎌倉時代の承久3年)ついに討幕を前提に身軽になるべく

息子の仲恭天皇(4歳)に譲位してしまった。

1221年5月に後鳥羽上皇は「院が流鏑馬を参照になる」という口実で、

諸国の武士を集めるとデフォルト挙兵、北条義時追討の院宣を発した。

これによって京都にいた多くの武士が強制的に上皇方に組み入れられたのです。

院宣を出した事で上皇方は「おおかたの武士が朝廷について幕府に付く

ものはわずかだろう」とカタをくくっていたが、

実のところには北条政子の演説の効き目などにより、

結局幕府に付く武士の方が多かったのです。

北条義時は「もし、帝か院(上皇)が自ら戦陣に立たれるような事があれば

降伏せよ」という指令を出していたが、

後鳥羽上皇や順徳上皇は京都を動かなかったので幕府軍は上皇軍を各所

で破って入京したのです。

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京都に置かれた役所は?

承久の乱のあと、幕府が朝廷や西国武士を監視するために京都に設置した。

「六波羅探題」(ろくはらたんだい)

の北と南に設置されました。

鎌倉幕府の実質的な最高指導者であった北条義時の子で、

承久の乱の際に東海道の大将軍として上洛していた北条泰時が「北の初代長官」、

その叔父の時房が「南の初代長官」となり、戦後処理にあたったのです。

六波羅探題が果たした役割とは?

幕府が置かれていた鎌倉からは天皇や公家の朝廷がある京都までは、
およそ450kmの距離があったのです。

京都で朝廷側が何か行動を起こしても、これを治めるために鎌倉から

軍勢を向けるには時がかかり過ぎてしまうためです。

それにより幕府は、「六波羅探題」に軍事指揮権も持たせのです。

鎌倉幕府の役職のなかで執権・連署に次ぐ肝心な役職とされ、

北条一族のなかでも特に有望な者が代々その任に就きました。

しかし1568年(永禄11年)に織田信長が京都の監視と治安維持のために

設置した機関、

「京都所司代」

これは、訴訟の権限と軍事の指揮権を除いてほぼ同じ役割を担っています。

天皇家や公家の監視、京都諸役人の統率、京都町方の取締り、

近畿8ヶ国の訴訟処理、西国33ヶ国の大名の動静監視などを担い、

老中に次ぐ重要な役職とされ、強い権限が与えられていた。

幕末になると、それらの権限は徐々に
「京都町奉行」に譲られ、以後は老中になるための通過点となります。

国の体質はそれ以前に2回変化している?

1回目は、第31代の用明天皇が仏教を使いはじめたときで、

それまでの天皇は日本の神をまつる代表という立場でしたが、

仏教という新しい宗教も受け入れて、国民の精神が大きく変わりました。

2回目は源頼朝が鎌倉幕府を開いたとき。

宮廷と関係なく天下を武力で征服して、全国を支配するために守護・地頭を置いたため、

土地所有者の任命権が幕府に移り、宮廷には実質上の支配権がなくなた。

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