麒麟がくる!明智光秀(長谷川博己)の生涯や子孫は?正室煕子(ひろこ)とは?

大河ドラマ

大河ドラマ「麒麟がくる」は原作は無く、今回脚本を務める
池端俊策氏のオリジナル作品となる。

「麒麟がくる」の主人公は明智光秀
(長谷川博己)さんが演じます。

明智光秀の生い立ちについて確定されていないのです。

・1528年に美濃国みののくに
の身分の低い牢人として生まれました説。

・史料によっては1526年生まれ説。

・また1540年生まれ説。

・大河ドラマ『麒麟がくる』では
1528年に生まれたという設定。

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明智光秀の 本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、

美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。

あくまでも土岐明智氏の流れを汲むというだけのようで、

これも異なっている。

父:明智光綱

母:お牧の方

養父:明智光安(明智頼明)

明智光秀が生まれた場所については美濃国石津郡多羅の進士家の居城(多羅城)と明智城(明智長山城)との2つの説を挙げている。

また実母は明智光綱の妹であり、父は進士信周。

光秀はその次男であると書かれています。

光秀の母の兄・光綱は病弱で子どもが生まれず、そのため光継(または頼典)が光秀を養子に引き取って家督を譲ったとあります。

家系図も組み合わせた物もあり、その他色んな説がありますから不明です。

系図では、信教・康秀という二人の弟が居たようですが、

誰であるかはっきりとしていません。

光秀の直系の子孫は勿論絶えており、兄弟の存在も定かではない。

画像:https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5ddca…

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明智光秀の年表まとめ

●1歳・1528年(享禄元)

明智光綱の長男として美濃多羅城に生まれその後明智城へ移る

●8歳・1535年(天文4)

父親が死去し、家督を相続する

●29歳・1557年(弘治2)

明智城落城。浪人となり越前朝倉氏に使える

●30歳・1557年(弘治3)

諸国遍歴に出る

●33歳・1560年(永禄3)

越前(福井県)に戻る

●35歳・1562年(永禄5)

朝倉家より鉄砲隊100人預かる

●36歳・1563年(永禄6)

織田信長に仕える

●38歳・1565年(永禄8)

信長より、美濃安八郡を拝領する

●39歳・1566年(永禄9)

北伊勢平定に出陣

織田信長美濃(岐阜)を制圧

●40歳・1567年(永禄10)

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足利義昭が将軍になり、信長と将軍との仲介役を務める

●41歳・1568年(永禄11)

北畠具教討伐参加し織田信長、北畠家を制圧

●42歳・1569年(永禄12)

長男生まれる

●43歳・1570年(元亀元)

比叡山焼き討ちの後、信長より近江志賀郡を与えられる

●44歳・1571年(元亀2)

浅井家と戦う、坂本城築城

●45歳・1572年(元亀3)

今堅田の本願寺勢攻撃、足利義昭の槙島城攻撃

●46歳・1573年(天正元)

光秀の子(十二郎)を筒井順慶に養子に出す

●47歳・1574年(天正2)

丹波(兵庫県)平定を信長に命じられる

●48歳・1575年(天正3)

波多野秀治の謀反により敗走、石山本願寺攻めの最中病で倒れる

●50歳・1577年(天正5)

娘のガラシャが細川忠興に輿入れ

●53歳・1580年(天正8)

信長の馬揃え(天皇の前での軍事パレード)を取り仕切る

●54歳・1581年(天正9)

家康の安土城来訪時の饗応責任者を命じられる

●55歳・1582年(天正10)

本能寺で信長を自害に追い込む、山崎の戦いで秀吉に敗退し、逃走中にヤブの中で土民に殺害される

明智光秀の正室煕子(ひろこ)とは?

明智光秀の正室煕子(ひろこ)は戦国時代の女性ですが、

父親は妻木範熙と妻木広忠(つまき・ひろただ)の名前が出ており、

どちらかは確定されておりません。

生まれも1530年頃誕生とされておりこちらも確定されておりません。

ただ旧姓は妻木煕子(つまき・ひろこ)となります。

しかし明智光秀の正室の名前も
「お牧の方」「お槙」「伏屋姫」など

確かな史料でその名前を確認することはできない。

明智光秀・煕子の子供は?

俗説が多く3男4女のうち、母は別であるという異説がある

・長女が明智光春(秀満)の室

・次女が明智光忠の室

・三女・珠(細川ガラシャ)が細川忠興の室

・四女が織田信澄の室

・嫡男の十兵衛光慶(千代寿丸)

・次男の十次郎光泰
・三男に乙寿丸がいたという異説がある。

夫婦仲は非常に良かったとされ、「結婚直前に疱瘡(あばた)にかかり」、

「左頬にその後が残ってしまった煕子を光秀は気にせずに迎えた」とある。

明智光秀が丹波攻略を行いながら本願寺との戦闘にも参加していた

この年過労で倒れ危篤状態にまでなるものの、煕子の献身的な看護で持ち直し、二ヶ月後には前線復帰を果たします。

しかし、不眠不休で看護を続けた煕子はこの時の心労と疲労で倒れ、

そのまま息を引き取ったと言われています。

享年46歳(36、42歳という説もあり)、

お墓は滋賀県大津市にある明智氏、妻木氏の菩提寺である西教寺にあります。

光秀と煕子に関する逸話は江戸時代に創作された話とも言われており、

信憑性の高い史料にこの記述が残っているわけでもないのです。

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