最後に食べたいものなら、誰もが思い描く食べ物がすぐ浮かぶだろう。
しかし、歴史に出てくる人気の武将たちが最後に口にしたものとなると、ちょっと考えつかない。
果たして最後の晩餐などあったのだろうか。
いざ、本能寺へ
信長は本能寺で茶会を開いていた、
なぜ信長は、少人数の家来を連れて京都に来たのか。
少なからず予想していたのではないか。
それは、キリストからユダへのメッセージに由来する、「ここに裏切り者がいる。さあ、この一切れのパンをあげよう、君は今しようとしていることをするがよい。」
光秀が裏切るように仕向けた?としか思えない。死を覚悟していた信長は何を食べたであろうか。
信長が最後に口にしたもの、それはかまぼこ、集め汁(アワビ、魚のつみれ、鯛)と言われている。
明智光秀の最後の晩餐は何だったのか?
次の日の夜更け早朝が本能寺の変、つまり3時間後にはもう終わっていることを想定すると、京都に着いた日の夜がそうではなかっただろうか。
どこにも記述しているものがないため想像の域を出ないが、山口晃氏の絵画の中に、
ワインと思われる飲み物を口にする武将の姿が描かれている。
所で明智光秀の好物とは一体何でしょうか、
明智光秀の好物は粽(ちまき)だったそうです。
※粽(ちまき)は
〔もと茅(ちがや)の葉で包んだことから〕 米や米の粉などを笹の葉・竹の皮などで包み、藺草(いぐさ)で三角形に巻き上げて蒸したもの。
明智光秀は石風呂(サウナ)が好きだった?
光秀が生きていたら、今ごろ日本の温泉を巡り、書物を出版していただろう。
謀反を起こす前の笑顔の光秀を想像してしまう。
死してなお残る明智風呂は京都にある。
戦国時代の石風呂とは?
当時の風呂は石風呂で焼いた石に水をかけ、蒸気を発生させるものであった、
サウナと言われる所以である。
一番最初に入った風呂は?
光秀の友だち、吉田憲見の日記に1570年11月13日私の家にある石風呂に入ったと書かれている。
光秀は、その10日後も兼見の家を訪れ、入浴していることから風呂好きであると言える。
妙心寺に残る光秀の風呂とは?
本能寺の変の後、光秀はここを訪ね自殺を図ろうとしている。
妙心寺は光秀の叔父・光宗の建てた寺であり、狩野探幽作雲龍画でも有名な寺である、
この妙心寺には、明智風呂と言う浴室が現存している。
内部は蒸し風呂と洗い場になっている、叔父・光宗が山崎の合戦以降、光秀を弔うためにつくった風呂と言われている。
汚名をきれいに洗い流すという願いも込められているのだろうか、妙心寺には信長の墓もある、石田光成の菩提所でもあり、豊臣家ゆかりの墓もある。
まとめ
京都には銭湯がたくさんあり、お風呂に関する遺産が数多く残っていると言われている。京都には、歴史をたどり歴史をひもとく鍵がまだまだ数多く残されている。
日本のどこかに光秀ゆかりの温泉があると知ったら行ってみたいと思いませんか?