びっくり仰天とはこのことだ。
明智光秀のイメージが180度変わってしまうこの事実、歴史のエピソードが分かるかもしれない。
人間くさい光秀を発見できれば大変うれしいものである。
本当は子どもたちを政治の道具にしていた!?
光秀の子どもはほとんどが娘、光秀は有力大名や信長の甥に娘を嫁がせ、畿内で一大縁戚ネットワークを築いている。
信長は、そのネットワークを警戒していたという、本能寺の変の直前にその一部を取り崩そうとした形跡があり、
それが、本能寺の変の伏線となったとも考えられている。
光秀は、正室ひろこと側室との間に11人の子どもをもうけているとか。
また別の資料には、正室、側室との間に6男7女と記述しているものもある。
『明智早記』には、正室ひろことの間に3男4女の記載がある。
これは歴史上の知るところである。
光秀は一族を逃がしたかった?
側室の子・おずるまるの子孫であると公言した憲三郎氏の話によると、光秀は明智家の滅亡を何としても阻止したかった。
光秀の子どもたちを無事に坂本城から落ちのびさせることだった、『明智軍記』によると自刃したとされる明智秀満は土佐へ逃げのび坂本を名乗った。
かの有名な坂本龍馬は明智家の子孫だという。
その裏付けは次の通りである、フロイスが書いた1582年日本年報に秀吉は残党狩りをしたものの、光秀の子どもを捕え処刑したという記録がない。
二人の男の子は逃げのびたといううわさがあったと記録されている。
今も光秀の血は受け継がれている
坂本龍馬以外にも受け継がれている人たちがいる、細川元首相は細川忠興・ガラシャ夫婦の三男忠興の直系である。
細川隆一郎・隆之兄弟は二人の長男の血をひいている、クリスペクター氏は光秀の実子・土岐家の子孫である。
そしてもう一人、側室の子おずるまるの子孫が明智憲三郎氏ということになる。
上総の国に光秀の側室と子供が逃れ、四国に秀満の子どもが逃れ土岐氏を名乗った。
実際にお墓もあるらしい数多くの子孫がまだ生きているが、今だに名乗ることが出来ずにいるという。
まとめ
憲三郎氏の著書の中に、大国、中国を制圧して日本を息子たちに分け与えるという光秀の構想が書かれている。
多くの歴史家は憲三郎氏の説を否定したり、興味を抱いたり疑問をもって調べたりなど、これからも論争は続いていくにちがいない。
未だ、未知の領域を出ないからこそロマンを感じ、歴史をもっと知りたくなる。
まだまだ歴史捜査にメスを入れなければならない。