
何と、戦国時代を生き抜いた武将たちが勢揃いしているではないか。
本当の友が戦国時代に存在していたとしたら、戦いもそれによる死も
無駄ではなかったと言えるのかもしれない。
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明智光秀と徳川家康は強い絆で結ばれている
憲三郎氏の書や他の歴史資料を合わせてみると、家康とは友好的であるが秀吉には良い感情は抱いていないのではないか、
本能寺の変を起こした光秀とつながっているのではないかと言われる家康が、変の後もずっと明智家にかかわっているからだ。
豊臣秀吉は自分に都合の良いストーリーを組み立て、さまざまな文献を書いて後世に残した。利害が一致した家康もそのストーリーに乗り、信長を裏切った悪者として光秀ひとりに罪をかぶせたとしたらどうだろう。
光秀への気持ちを想像してしまう。
豊臣秀吉への不信感は子どもへと継がれている、忠興の息子は大阪の陣で豊臣方として戦った。
しかし、それを許せなかった忠興は豊臣滅亡後に戻ってきた息子に切腹を申しつけたのである。
また、家康と結びつきを強めたい忠興は秀吉の親友前田利家の娘を嫁にした長男を廃嫡させている。
明智光秀は徳川家康の側近・天海僧正か?!
これについてもなんと学者の説が分かれていることか。家康の墓を日光に建立した。いろは坂を上った見晴らしのいい場所を明智平という。
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明智という姓を名乗れない天海がつけたという、明智光秀が寄進した灯篭が比叡山にある。
寄進は1615年、光秀は死んでいるはず…なのに?!光秀の木像と位牌がある慈眼寺、
天海のもうひとつの名前が「慈眼大師」同じ名前がついている?!
日光東照宮になぜ明智の紋があるのだろう?
家康は本能寺の変が起こった時、伊賀を越えて国へ戻ろうとしていた。
この時に命からがら逃げのびたと記録に残っている、助かった理由が2つ言われている。
1つは、伊賀の忍者が焼き討ちの時の恩返しをした。
もう1つは家康の命を光秀が救ったというものである。
家康は後に3代将軍家光の乳母に、光秀の腹心斉藤利三の娘・福を仕えさせている。
利三は家康と光秀の連絡役であり、クーデター計画の1人であった。
利三が処刑されるまで家康加担の事実をもらさなかった恩義を忘れなかったということだろう。
信長の家臣でしかなかった明智家の紋が日光東照宮にある、家康の政治顧問として天海が現れるのも光秀の死後である。
家康は光秀を生涯大切な存在としてわすれることはなかったのではないだろうか。
おわりに
光秀と家康そして秀吉。
家康は信長の人質だった、上杉や北条からの圧力もあった家康にはリスクが大きい。
秀吉は天下統一をねらっていた。
歴史を動かした3人の関係は謎多きもの、戦国時代に脚光を浴びた人々。
時代の陰に埋もれた人々、戦国の世を生き抜いた女性たち、まるで推理小説のトリックにかかったようでおもしろい遠かった過去の歴史が今はとても近い。
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