彼の名は服部匡志先生。
そんな服部賛成先生は、月の半分を日本で稼ぎ、半分はベトナムに渡って貧しい人々を無償で治療している。
どこの病院にも属さず、フリーで日本各地の病院を渡り歩き、数多くの手術をこなして回る。
「一人でも多くの人の目に再び光を感じさせてあげたい」。
そんな眼科手術で、世界でもトップレベルの腕を持つドクター。
現代の「リアル・赤ひげ先生」。
白内障や、糖尿病の合併症など、誰もが罹りうる「目」に関わる深刻な病気は多い。
その一心で14年に渡って救ってきた人は、日本とベトナム合わせて3万5千人を超えた。
そんな服部 匡志先生のプロフィールや略歴、給料はどうしているのか?調べて見ました。
画像:http://hanovonet.blog.fc2.com/blog-entry-181.html
服部 匡志(はっとり ただし)先生プロフィール
リーランス眼科医
誕生:1964年
出身:大阪生まれ
学歴:1993年京都府立医科大学医学部卒業
同 年:京都府立医科大学眼科レジデント
勤務:1994年多根記念眼科病院勤務(大阪)
1996年:愛生会山科病院勤務(京都)
1997年:出田眼科病院勤務(熊本)
1998年:聖マリア病院眼科(福岡)、海谷眼科(静岡)勤務
2002年:ベトナム国立眼科研究所網膜硝子体手術指導医
2004年:同研究所客員教授
略歴
高校 2 年生の時、父親を胃がんで亡くしたことが医者を志す転機となった。
父親の入院中に医師の心ない言葉を受けて、患者の心の痛みのわかる医師になりたいと決意した。
4年間の浪人生活を経て京都府立医科大学の医学部を卒業後、フリーの眼科医となる。
ヒゲ面の外見から「ベトナムの赤ひげ先生(赤ひげ眼科)」とも呼ばれる。
京都府立医科大卒業後、外科を志望していたが眼科の木下教授に出会い、その人柄に惚れて眼科の道に進む。
京都、大阪、熊本、福岡、静岡の民間病院で研鑽を積み、網膜硝子体手術の分野では日本のトップレベル技術を持つ。
2001 年10 月、母校の京都府立医科大学で開催された「臨床眼科学会」でベトナム人医師と出会い、患者の治療と眼科医の指導を懇願される。
2002年 4 月、ベトナムに渡る。以来、治療した患者は 2000人を数え、
医療スタッフの教育や意識改革は進んでいるものの、器材不足は否めず、自腹を切って器具を買い揃える。
月給はわずかに1万円相当のため、ベトナムでの生活費にもならないため、定期的に帰国してスポット勤務医として資金を工面する二重生活が続いている。
2005年に町村外務大臣(当時)より感謝状を贈呈される。
2006年、第16回宮沢賢治イーハトーブ賞受賞。
2007年にベトナム保健省より人民保健勲章を受章。
2008年に全国日本学士会よりアカデミア賞、世界平和研究所より中曽根康弘賞奨励賞を受賞。
2012年 国際社会で顕著な活動を行い世界で『日本』の発信に貢献した業績をもとに、
外国人プレス関係者により構成される、世界で活躍し『日本』を発信する日本人プロジェクトより、
内閣府から世界で活躍し『日本』を発信する日本人の一人に選ばれた。
赤ひげ先生の年収は
神の手とも呼ばれる圧倒的な技術で、それほどの腕を持つ医師は残りの半分の2週間はベトナムに赴き、無償で患者を治療しているのだ。
先生の年収は、なんと400万-500万程度で、普通のサラリーマンと変わらない。
フリーのスタイルだから、一ヶ月休んだら一ヶ月、収入はゼロだ。保険もなければ保障もない。
日本で開業すれば、神業に近い特殊な技量を持つ服部氏の年収は1億円は下らない。いい家に住み、高級車に乗って、週末はゴルフといった生活が出来る。
ベトナムでのボランティア医療生活はストレスだらけ、持病と化したヘルニアは、初期治療を怠ったためか、今なお痛むそうです。
服部先生はは日本でもベトナムでも、白衣を着て仕事はしないそうです。
診療をするときは、いつもYシャツ姿だ。
「白衣が患者に与える威圧感みたいなものに抵抗を覚えるためだ」と言う。
最後に
こんな医師もいたんだ、良い学校には医師のお子さんが私の知ってる所では多いですね、休みは高級車に乗ってゴルフか。
服部先生は。「でも、それでは僕の医師としての人生は続かない。
やはり、心が燃えないからだ」ときっぱり語ってます。。