北海道・知床のヒグマ猟師・久保俊治さんが
NHKプロフェッショナル 仕事の流で紹介されます。
久保俊治さんは卓越した技術と哲学で尊敬を集める伝説の男なのです。
秋はシカ、冬はヒグマ
久保さんはあくまで単独での猟にこだわる、
また。無駄な弾を撃つことを嫌い、一撃で仕留めるのが信条だそうです。
命がけの駆け引き緊張が走る瞬間を、プロフェッショナル 仕事の流で見てください。
そんな久保俊治さんの経歴や出身校や家族など調べてみました。
画像:http://kimamana-topic.com/138.html
久保俊治(くぼとしはる)さん経歴
仕事:狩猟・牧場を経営・出版
誕生:1947年 69歳
出身地:北海道・小樽市生まれ
出身校:1966年小樽千秋高校卒業
1968年小樽商科大学短期学部卒業
久保俊治さんの父親の趣味だった狩猟について
行くうちに、自分も狩猟に興味を持つように
なったそうです。
幼少の頃からすれば,ハンター歴は半世紀を
優に超えています。
20代の時に猟師として生きることを決め、
ヒグマを求め知床半島に移住します。
1975年にアメリカの狩猟ガイド養成学校
「アウトフィッターズ・アンド・ガイズ・スクール」に東洋人として
初めて入学しました。
日本人初のプロハンティングガイドの資格を
優秀な成績で取得し,アメリカでガイド助手を
務めておりました。
帰国後は北海道・標津町で牧場を経営しながら猟を続けています。
1970年時代の収入は?
鹿は角がよければ頭だけで10万円で剥製屋に,
狐の皮1万円,エゾライチョウはつがいで
5000円,
羆は毛皮,胆が良ければ30万円。
1年で平均して羆1頭,シカ2頭,キツネ20頭,
エゾライチョウ20羽獲れれば80万円の収入があったそうです。
1970年の大学の初任給は4万円でした、
急速に国民の所得が上がって止まった変化の時代で
1973年くらいまでの高度経済成長
そして、オイルショック、
その後の1974~79年では大きく異なります。
1979年の10万円は現在の20万円くらいに
あたります。
2倍の計算になりますので年収は現在の
160万円ですね。
何とか生活はできることです、それより少ない
方も多いと思います。
久保俊治さんの娘や家族は?
奥さんの名前は分かりませんが職業は
漫画家だった
結婚してからは2人の娘さんが授かり
自然の中で厳しく育られたそうです。
本当にビックリで子どもたちと近くの山や川に
遊びに行くときは,
弁当などは持参せずに食料は現地調達があたりまえで、釣った魚を焚き火で焼き,
山菜で汁を作る
サバイバルな教育方針だったそうです。
釣れなければ魚は無く、山菜のみになってしまう
でしょうね。
またシカ撃ちに連れて行き,獲物を一緒に食べていたそうです。
この様子を「大草原の少女みゆきちゃん」として
北海道放送のドキュメンタリー番組になりDVD
にもなっております。
DVDで少女だった娘さんたちは,いずれも大学を卒業して,牧場を手伝いながら
乗馬用の馬の調教をしたり,自然環境の保全に取り組んでおられます。
使用銃はなに?
村田銃VS熊
現代のライフル銃でも熊の急所に当てないと一発で仕留めるのは難しい。
マタギは村田銃で熊を仕留めており、久保さんも
村田銃を使用してます。
村田銃(むらたじゅう)は、薩摩藩・日本陸軍の火器専門家だった村田経芳がフランスのグラース銃(金属薬莢用に改造されたシャスポー銃)の国産化を図る過程で開発し、1880年(明治13年)に日本軍が採用した最初の国産小銃。
設計者、村田経芳(むらた つねよし)
死没 1921年2月9日
製造期間:1880年–1905年
派生型
- 13年式村田銃
- 16年式村田銃
- 18年式村田銃
- 22年式村田連発銃
- 22式村田連発騎銃
猟銃
最後に
ネットで出てくる「フチ」とは
久保さんがアメリカから帰国してからは,
アイヌ犬を狩猟犬として育て,
フチ(火の女神)と名付
絶好のコンビを組み再び狩猟生活へ。
大自然の中でフチとともに,木の実,
野草を食べ,雪解け水を飲み狩猟を続けたが
フチとの別れ,家族とも違う相棒との死別
だったのです。