吉本興業の創設者は吉本せいで生涯は波乱?夫は遊び人で芸人道楽?

NHK朝どら「わろてんか」のモデルとなる、
吉本興業の創設者です。

吉本せい(林せい)

1889年12月5日兵庫県明石市で米穀商の
三女として生まれる。

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父親は「林豊次郎」で母親は「林ちよ」ですが、
子供は12人おります男6人の女6人。

 

昔の人は当たり前のように生んでいたのですから
女の人は強かったのでしょうね。

 

実の弟で林正之助が後の吉本興業のドンと言われた方です。

林家は明石藩松平家の下級藩士の家系で、
明治維新の始めに父親の林豊太郎は、

兵庫県明石市東本町で太物屋「紀伊国屋」いとなんでおります。

 

太物屋とは?

和服用の織物の呼称の一つだそうで、
絹織物に対して綿織物や麻織物を太物と称した。

 

絹の着物、すなわち本義としての呉服があり、
その繊維と比較して太い木綿を主として、
麻や楮を太物と呼んだそうです。

 

その後吉本せい(林せい)が生まれた明治中頃には

大阪府大阪市北区の天神橋5丁目で、

新たに米穀商と金融業を始めました。

 

お金もちだったのでしょうから、金融業なども
出来たと思われます。

関連サイト

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吉本せいと夫の吉本吉兵衛は吉本興業創設者で遊び人?

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画像:http://anincline.com/yoshimoto-sei/

吉本せい(林せい)の商才

吉本せい(林せい)は明治33年に尋常小学校を
卒業したが成績は優秀で進学の話も出たが、

「女子に学問は必要ない」

と言う時代でしたので進学はあきらめ、
15歳で奉公にだされる。

 

これも古い風習であった吉本せい(林せい)は
自分で奉公さきを見つけ奉公にでる。

 

奉公先は北浜の相場師大阪でも有数の商家で、
ここで上女中として奉公しました。

 

しかし、この商家の主は「ドケチ」で有名で
女中たちは苦労したそうです。

 

その後は奉公が明け実家にもどり家業の手伝い
をするが、ここで吉本せい(林せい)の

商才

を発揮して家業の売り上げを伸ばして父親の
林豊次郎もビックリしたそうです。

 

父親の林豊次郎は吉本せい(林せい)に
婿養子をとって暖簾分けを考えて全国
展開まで考えた。

 

しかし縁談の話が来てしまうが、縁談を持って
来たのが老舗の荒物問屋「箸吉(はしきち)」
なので断ることが出来なかった。

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吉本せい(林せい)結婚

老舗の荒物問屋「箸吉(はしきち)」は
4代続く家柄で大阪市東区内本町にあった。

荒物屋

家庭用の雑貨類を売る商売。

荒物問屋「箸吉(はしきち)」の跡取り息子
吉本吉次郎(後の吉本泰三)です。

 

吉本家は吉本せい(林せい)の商才の噂を聞き
林家に縁談を持ち込んだのだ。

 

父親は縁談を断るつもりだったが母親が反対し
嫁ぐことになってしまいます。

 

吉本せい(林せい)19歳

吉本吉次郎(後の吉本泰三)22歳

 

1907年(明治40年)に結婚しました。

吉本吉次郎(後の吉本泰三)は芸人道楽

夫の吉本吉次郎(後の吉本泰三)は継母

※継母と言うのは お父さんが再婚して
自分の母親代わりになった人

 

吉本ユキのイジメと父親の吉本吉兵衛にも
不信感をもち家業を投げ出し芸人道楽になっていた。

 

吉田家は吉本せい(林せい)と結婚したら
芸人遊びを止めると思いの策だった。

 

しかし、吉本吉次郎(後の吉本泰三)は
益々熱をあげしまいには「女賊島津お政本人
出演のざんげ芝居」の

一座の興行主となって巡業で旅回りまでするようになっていた。

 

巡業するたびに膨らむ借金。

一方吉本せい(林せい)は姑の吉本ユキから
嫁いびりが続くが荒物やを一生懸命にささえて
いく。

 

婚姻届はまだ提出されていなかったそうで、
第一子を妊娠したので1910年(明治43年)
に提出する。

 

それと重なって荒物屋が大阪市電鉄の計画で
立ち退き命令がでた1911年(明治44年).

 

この機会に荒物屋の家督を息子の吉本吉次郎(後の吉本泰三)に

継がせ5代目となる。

 

しかし芸人遊びは止められなく終いには荒物屋を
処分し寄席の経営を考えるも、

 

吉本せい(林せい)は荒物屋に嫁いで来たので
毎日夫婦喧嘩をくりかえしたが、

 

吉本家の荒物屋は不景気が悪化し廃業した。

吉本せい(林せい)は吉本家を出て林家の実家
に戻り夫をまった。

 

寄席の経営開始

夫は相変わらずで突如経営不振の三流寄席の権利
購入の約束をしてしまい、

 

問題の寄席は「第二文芸館」で天満神社の裏にある
8件の中の一軒。

 

「第二文芸館」は土地が天満神社のものなので
営業権の権利を買うのだが

 

権利金300円。家賃25円だった。

 

明治時代は芸人は「川原乞食」と呼ばれ荒物屋の
プライドがあり吉本家は怒り吉本吉次郎(後の吉本泰三)は

勘当され通称吉本泰三とした。

 

資金は金貸しと林家から借りくめんした。

1912年(明治45年)寄席の営業開始。

吉本興行部

1913年(大正2年)1月、
大阪市南区笠屋町(現・大阪市中央区東心斎橋)に「吉本興行部」を設立。

1932年(昭和7年)3月1日に吉本興行部を
改組する形で「吉本興業合名会社」を発足。

1948年1月7日、吉本興業合名会社から「吉本興業株式会社」に改組。

会長に就任。

1950年3月14日、死去。

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