西郷隆盛の妻は3人で須賀・愛加那・糸子とは?子供や子孫は?

男にも女にも持てた人物として描かれている
西郷隆盛だが、

生涯で3度結婚していたのです。

 

最初の妻は「須賀(すが)」

最初の妻は西郷家より格上の武家の娘であった。

伊集院 須賀(いじゅういん すが)は親同士が決めた結婚だったが、
直後に西郷の祖父
竜右衛門、父・吉兵衛、母・政佐子と

相次いで亡くなり、翌々年の安政元年
(1854年)には吉之助自身も

 

藩主・島津斉彬に従って江戸へ出府してしまったため、

家計は大いに苦しくなった。

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その影響もあってか、江戸在府の吉之助に親族から相談を持ちかけて離縁した。

結婚生活は2年余りだった。

 

西郷にとっては借金が多額もあり一番
苦しかった時期だった。

 

藩主・島津斉彬が死後に(げっしょう)と
西郷と共に錦江湾に入水自殺を
はかるも西郷は生き延びる。

 

僧侶の月照とは

安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、

西郷と共に京都を脱出して西郷の故郷である薩摩藩に逃れたが、

藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。

 

これは、薩摩国と日向国の国境で月照を斬り捨てるというものであった。

このため、月照も死を覚悟し自殺を計った。

 

2番目の妻・愛加那(あいかな)

西郷隆盛が自殺未遂ごに奄美大島への島流し
される、

西郷自信「土中の死骨」としょうしていた
時に出会ったのが「愛加那」だった。

 

愛加那は奄美大島の名家の娘で、
大柄で美人で西郷の好みの娘だった。

 

やがて隆盛と愛加那は結婚し、
島では3年間暮らしています。

 

菊次郎と菊草(菊子)という2人の子どもに恵まれます。

 

しかし幸せもつかの間、隆盛は藩に呼び戻されることになり、

愛加那は「島妻(あんご)」という立場
だったため、島から出ることが許されなかったのです。

 

※島妻制度:島で結婚しても妻は本島に連れて帰ってはいけないという決まり。

こうしてやむを得ない事情から、隆盛は
愛する家族と離ればなれになってしまいます。

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3番目の妻・糸子(いとこ)(いと)(イト)とも呼ばれていた

薩摩藩士である岩山八郎太直温の次女として生まれる、

隆盛と糸子はめでたく結婚、
隆盛が39歳、糸子が23歳の時でした。

 

糸子は離婚していてバツイチでしたが、
隆盛もバツ2であった。

 

隆盛と糸子の間には3人の子供が出来、
2番の愛加那の子供二人も呼び寄せ
5人の子供を育てた。

 

糸子は西郷の仕事をしっかれ理解し、
留守をあずかっていた。

 

その後西郷隆盛が西南戦争で亡くなってから21年後、

東京の上野に隆盛の銅像が建てられました。

 

除幕式には糸子をはじめ、隆盛の弟の従道や、従道の娘の桜子などが参加したのですが

完成した銅像を見た糸が鹿児島弁で、

「これは、やどんしじゃなか(これは、うちの主人じゃない)」

声を上げたという逸話があります。

詳しくはこちら

関連記事

西郷隆盛の性格や本名の謎にプロフィールは?肖像画も本人で無い?

 

西郷隆盛の子供と子孫は?

●2番目の妻・愛加那との子供は

菊次郎・菊草(菊子)

●3番目の妻・糸子(いとこ)(いと)(イト)の子供は?

寅太郎・牛次郎・酉三

 

西郷隆盛の子供の菊次郎は京都市長、

寅太郎は貴族院議員、

牛次郎は郵船会社重役

と要職についております。

 

酉三だけは惜しくも30歳で早世してし
おります。

 

寅太郎の息子の「吉之助」は、第2次佐藤内閣で法務大臣を務めていましたが、

暴力団とのつながりを持ち、「吉之助」は
自らの借金を帳消しするためにつながり
あったことで、

自民党を離党しています。

 

平成9(1997年)年まで存命していました。

 

長男の西郷菊次郎の孫は「陶芸家」で
現在も活躍しております。

 

名前は「西郷隆文」氏で
西郷隆盛 のひ孫となります。

関連サイト

西郷隆盛 ひ孫の西郷隆夫の略歴や職業と画像は?お店はどこ

 

最後に

3番目の妻・糸子の「寅太郎」は、
競馬の騎手「武豊」の遠縁だそうです。

ひ孫の西郷隆夫氏のお店に行くのも
良いですね。

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