西郷どん島津久光は生涯の敵だった?花火と寺田屋事件に天皇 明仁は孫?

島津久光(しまづひさみつ)は

島津斉興(しまづ なりおき)

島津氏第27代当主・薩摩藩の第10代藩主と

母は側室の由羅(ゆら)の子で、

類いまれな才能を持った
異母兄・島津 斉彬(しまづ なりあきら)に憧れその背中を追い続ける。

スポンサーリンク

兄の死により薩摩藩の最高権力者となるが、

斉彬に心酔し自らを田舎者扱いする西郷を疎み、

 

遠島に処すなど対立を深める
「西郷生涯の敵」だった。

●幕末薩摩藩の系図

父・島津斉興 第10代藩主・27代当主

兄・島津斉彬 第11代藩主・28代当主

弟・島津久光 (藩主ならず)

子・島津忠義 第12代藩主(久光の息子)・29代当主

 

家計図を見ますと兄・斉彬の次に家督を継いだのは、

弟・久光の実子である忠義でした。

 

理由は斉彬が跡継ぎのいないまま亡くなったため、

忠義がいったん斉彬の養子となってから、藩主の座を継いだのです。

 

しかし忠義はまだ若くて政治的実権を握ったのが久光だったのです。

薩摩では「国父(父のように尊敬される人)」として多くの

藩士から愛されてもおりました。

 

画像:http://rekishi-note.hatenablog.com/entry/2018/01/1…

島津久光と西郷との相性が悪かった?

こと始まりは兄弟が、それぞれの派閥の藩士たちに担がれて対立したのが、

お由羅騒動です。

お由羅騒動のキッカケともなったの「呪詛」の件。

 

これは当時、島津斉彬の子どもたちが
次々に亡くなるのですが、

これが由羅の呪いのせいだと斉彬派の間では語られるようになりました。

 

そこから「由羅を殺す!」という物騒なところまで発展して、

結果的に「お由羅騒動」というお家騒動になってしまうのです。

 

ドラマでは結構なまなましかったですが、実際は

「美しく賢さを兼ね備えた女性」であったと言われてます。

 

由羅は殺されること無く、逆に50名ほどの斉彬派藩士が処罰の対象になり、

西郷の上司・赤山靱負にいたっては切腹となりました。

 

斉彬も、我が子が次々と亡くなるため、その苛立ちを由羅に

ぶつけたところがあったのです。

 

この騒動で西郷や大久保たちの印象が悪くなったのです。

 

その後に斉彬の逝去と月照との心中未遂があり、

藩命により奄美大島で4年ほどを過ごした。

 

西郷が久光と対面するのは、奄美大島から薩摩に戻った1862文久2)年のこと。

しかしこの頃の西郷は、混迷する政局の実情をほとんど把握していなかったのが実情、

それにもかかわらず、率兵上京を計画していた久光に、

強い言葉で反対の意を伝えたのである。

スポンサーリンク

 

西郷は久光に向って、あなたは「地ゴロ」だから京都に行っても何もできない

と言い放ったのだという

※「地ゴロ」とは、薩摩の言葉で
「田舎者」を意味する。

 

久光はそれを聞いてはらわたが煮えくり返ったはずだが、

表立って処罰することはなかった。]

 

西郷が本格的に罰せられることになるのは、久光のこの上京の際、

彼から発せられた「下関で待機せよ」との命令を聞かなかったことによる。

 

久光上京に呼応し、尊皇攘夷派が京都で暴発するとのうわさを聞いた西郷は、

全くの独断で大坂に向ったのである。

 

これによって、西郷は徳之島に流されることとなったのです。

 

久光は「死罪を申し付けたいところだったが、一生帰って来られない遠島にとどめておいた」との旨を述べている。

 

このように島津久光と西郷との相性が
悪かったのです。

 

花火と寺田屋事件とは?

新政府に批判的となる島津久光は
薩摩藩は長州藩などとともに倒幕に成功したものの、

島津久光は明治維新後、新政府のやりかたに批判的な立場をとた。

 

新政府の中心的人物となった大久保利通により、

新政府への協力を要請するも、断ってしまいます。

 

島津久光は、廃藩置県には激怒し、
一晩中花火を打ち上げるという形で抗議
したのでした、

自宅で花火を打ち上げた久光さんですが、明治10年当時は鹿児島で隠居中、

戦火を逃れ桜島に避難していたそうですよ。

 

寺田屋事件とは?

京都の【寺田屋】と聞けば伏見奉行が坂本龍馬を襲撃・龍馬逃げるが

思い浮かべるが実はその前に【寺田屋】事件があります。

 

①寺田屋事件(1862年)薩摩藩内での内輪揉め

②寺田屋事件(1866年)坂本龍馬が暗殺

この二件ががありますが、

 

島津久光(薩摩の国父) vs 有馬新七(精忠組)が

文久2年4月23日(1862年5月21日)に
京都伏見の旅館・寺田屋で、

倒幕を時期尚早とし、公武合体を考える島津久光と朝廷が、

薩摩「精忠組」の過激暴徒を説得して失敗→討伐に切り替えた。

 

実働部隊の「鎮撫使」を派遣し、武力による斬殺および捕縛を遂行する。

そして鎮撫使(久光)で1名死亡、1名が重傷、4名軽傷 / 薩摩の過激派志士(有馬)で6名死亡、2名重傷のち切腹、22名投降、処罰者多数。

 

「同志合戦」とも呼ばれる哀しい戦いであります。

関連記事

西郷隆盛の妻は3人で須賀・愛加那・糸子とは?子供や子孫は?

西郷どんの大久保利通の子孫と吉田茂や麻生太郎との関係は?

西郷隆盛 ひ孫の西郷隆夫の略歴や職業と画像は?お店はどこ

今上天皇は島津久光のご子孫

現在の天皇陛下(明仁様)は、
島津久光の子孫にあたります。

島津久光の息子の藩主・島津久茂の娘が、天皇陛下の祖母です。

つまりは、島津久光は、
天皇陛下の曽曽祖父にあたります。

スポンサーリンク

スポンサーリンク

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る
コメントは利用できません。